【心の時代の禅の世界】気持ちを曇らせない、女性のためのかんたん心理学

withコロナは心の時代へ

withコロナ、アフターコロナは心の時代です。しかし、それには否定的な声も聞かれます。経済停滞の時期になると、心の時代だと言って、責任や問題から目をそらしているのではないの?前から心の時代、心の時代と言っているよね?と疑問に思うことがあるかもしれません。では、なぜ今は心の時代なのでしょうか。

なぜ心の時代なの?コロナ禍で憂鬱が増す

なぜ心の時代なのでしょうか?コロナ禍で人々の憂鬱が増している現状が教えてくれます。

新型コロナウイルスの影響により、わたしたちの生活は一変しました。不要不急の外出を控えるために働き方はリモートワークへと移行し、コミュニティでの人との関わりもオンライン化が推奨されて、新しい生活様式が浸透しつつあります。実際に触れ合える機会が制限され、寂しさや孤独感を増す人が増えてきました。また、日々雑多に入る大量の情報や、めまぐるしく変わっていく世の中の流れで、実は私たちは思うよりずっと疲れているのです。この過渡期に、多くの人はコロナ禍特有の様々な憂鬱に悩まされているようです。

  • 何をするにも気が重い
  • イベントも自粛され、四季を感じられない単調な毎日
  • 我慢ばかりでイライラする、怒りっぽくなった
  • 感染すると周りに大きな迷惑をかけると思い、どこへ行くのも怖くなる
  • 感染対策が甘い人に憤りを感じて不満が取れない
  • 先が見えない、どうしたらいいのかわからない

このような気持ちで、息苦しい日々を過ごしている人は増えています。警察庁の発表によると、2020年は自殺者が増え、特に女性は過去5年で最多になったということでした。日本人女性の自殺死亡率は世界4位とかなり高く、私たち女性に今必要なのは心のケアだとわかります。また、自分の心を守るためには、心の持ちようをどうを変えていくのか考えていかなくてはなりません。

こういった背景からも、これからは心の時代だと捉えることは自然です。

なぜ心の時代なの?コロナ禍で変わる価値観

なぜ心の時代なのでしょうか?コロナ禍において人々の価値観は大きく変化しつつあります。物の豊かさから心の豊かさへと世の中のニーズは変わっているのです。

激変していく生活状況と共に、今までの価値観がガラリと変わる体験をしていると感じる人は多いでしょう。価値観の変化のうねりの中で、自分にとって大切なものを見出した人も多くいるのです。

  • 危機の中での助け合いで、人の優しさや思いやり、人との絆に触れることができた
  • 家族と過ごす時間が増え、家族のことを考えられるようになった
  • 人と気軽に会えるのが当たり前ではなくなって、人と会えることがどんなにありがたいことだったかわかるようになった
  • お金で解決できないことがたくさんあると気づけた
  • 自分の生活がどれほど人の力によって成り立っているのかわかった
  • 医療従事者の苦労を知ることで、色々な人のおかげで生きていることが身にしみてわかり、日常生活で感謝を深く感じられるようになった
  • 人と会えない分、自分のことについてよく見つめるようになった
  • 生活の変化によって、今まで気づかなかった自分を新たに発見することができた

このように、制限を余儀なくされた日常生活において、気づいてきたのは心のあり方に関することなのが特徴的です。密の回避で、距離的・身体的密接さがとれない反面、気持ちを寄り添わせ、心を通わすやさしい心の密に気づいているのでしょう。
今までは、見に見える事柄に信頼を置いてきたけれど、こうして目に見えない心に価値を見出すようになってきたのも、心の時代であるからと言えるのです。

心の時代に取り入れる心理学としての禅

心の時代に取り入れたいのが、心理学としての禅です。

心の豊かさは、不合理性の中でこそ育まれていると言われています。ガラリと激変したwithコロナの不合理なこの時代は、まさに心の豊かさを育む心の時代です。心の時代を生きる女性が、心理学としての禅の教えを日常に取り入れることで、今抱えている問題の解決策のヒントを得ることになるのです。

禅は心を鎮め安定させてくれる

禅の教えは、「あるがままを受け入れ、とらわれない心」です。とらわれからの脱却は、心を鎮めて安定させることに繋がります。今抱えている問題によって、不安や憤りで不安定になったあなたの心も、禅の世界を知ることで落ち着きを取り戻してくれるのです。

私たちはこの瞬間も何かにとらわれていることが多いものです。たとえば、食器を洗っている最中も、気がかりになっている今月の家計について、月末はどうなるのかなと、あれこれ考えあぐねることもあるでしょう。それもとらわれです。

また、職場で嫌いなあの人の言った言葉やあの態度が気に入らない、ああ腹が立つ。と、気づけばまた同じことを考えてしまうことがあります。気にしないでおこうと心に決めても、ふとした時にまたそのシーンが蘇えり、腹を立てる。これもとらわれです。

一見いいことのように感じるかもしれませんが、大好きな人のことが寝ても覚めても思い浮かんでしまい、他のことが手につかなくなるというのもとらわれなのです。

私たちが望むのは心の自由

とらわれがひどくなると、冷静さを失ったり、自分を見失ったりし、周りに迷惑をかけてしまうこともあるでしょう。また、とらわれで頭の中がいっぱいになり、どんどん自分を追い込んで、状況を悪化させることもあるようです。このように、とらわれた心は意図せずとも弊害を及ぼすことになります。

私たちが望むのは心の自由です。心の自由とは、とらわれていない状態のことを指します。例えば、自分にとってよくないことが起きたとき、その出来事にずっととらわれ続けてしまうでしょう。そのような時、心は不自由なのです。

逆によいことが起きると、その出来事にずっととらわれている方が幸せなように感じますが、目の前のやるべきことができなくなったり、大切なものを見逃してしまったりするのです。何かの問題を抱えているとき、その原因はたいていとらわれです。

禅の教えを取り入れた心理学の観点からものごと見ると、よいことも悪いことも全てを含め、どのようなことが起きようと、とらわれない心の自由を知るのです。執着を捨てることが心の安定に繋がり、幸福度を高めてくれるに違いありません。

心の問題がクローズアップされるこの心の時代に、禅の教えが心を鎮め安定させてくれるのです。

心理学としての禅から得るもの~とらわれからの脱却~

いくら心の時代とは言えど、宗教はとっつきにくく怪しげだと感じる人は多いもの。そこで、心理学の観点から禅の教えを紐といていきます。心理学として考えていく禅の教えから得られるものは、今あなたが抱えているとらわれからの脱却です。

私たちは意識しているしていないに関わらず、多くのことにとらわれ続けています。それは世間の常識や自分の固定観念であり、周りの目や周りからの評価でもあります。または過去や未来の出来事、果ては抱き続けている夢や希望なのかもしれません。禅は、自分を不自由にしているこれらのとらわれから脱却するよう諭してくれているのです。

しかし、あなたはこう感じるかも知れません。とらわれからの脱却は果たしていいものなの?自己中心的になるのではないの?自分の芯というものがなくなるのでは?

多くの人は、世間の常識は優先されなければならないと思っているし、自分の価値観や固定観念を大切にするのがよいことだと信じているでしょう。また、夢や希望はよりよく生きていくために必要で、夢を実現するために切磋琢磨しながら生きていくことが理想だと思うのも当然です。では、とらわれないとはどういうことなのでしょうか。

日常に潜むとらわれ

禅でいうとらわれという言葉、何やら難しくてなかなか理解しづらいと思うことがあるでしょう。心理学を用いると、私たちのよくある日常の悩みに直結して考えることができます。とらわれないとはどういうことなのかを理解していく際に、日常生活に潜んでいるとらわれを見ていくとわかりやすくなります。

世間では一般的に、離婚や失業というものは不幸な出来事であるし、避けなければならないという考えがあるでしょう。夢のない人生は悲劇だと、多くの人が夢の大切さを口にします。それがとらわれになってしまうと、次のような悲劇を生むことになるのです。

離婚を避けるために、配偶者との苦しい関係を我慢して維持し続けると、心身の調子を崩すことにもなります。また、夫婦の関係や両親の気持ちが落ち着かない家庭環境は、子供に悪影響を及ぼすという結果に繋がることがあるのです。

失業したくないばかりに合わない職場で働き続けると、過剰なストレスを生み、うつ病などの精神疾患になりかねません。長引く精神疾患から社会復帰が困難になる、深刻な問題も多いのです。他に、負担の重い職務や働きすぎは、脳疾患や心疾患を引き起こす原因にもなるとは、誰もが知りうるところでしょう。

また、夢を追い続けていくうちに、最初は楽しかったはずのものが、いつしか苦しみに変わっていくこともよく経験するのではないでしょうか。
一方、こういったとらわれをはずしたことで、離婚や失業を自分で選ぶことができ、新しい人生を手に入れて幸せになる人は数多くいます。

時に、今抱えている夢を手放し、別の分野にシフトすることも必要となります。長年手掛けてきた渾身のプロジェクトから撤退する勇気が必要なこともよくある話です。

もちろん時代の変化と共に、世界的に多くの固定観念は書きかえられています。そうでなくとも、自分の中で頑固になっている固定観念や価値観をはずして、苦難から脱却できた話も多く聞くことではないでしょうか。

私たちは実にたくさんのことにとらわれ続けています。

  • 女性は愛されなければならない
  • この子はあの学校に行かなければ幸せになれない
  • 夫は家事を手伝わない、何を言っても無駄
  • あの人は私を嫌っているに違いない
  • 親は尊敬するべきだし、親孝行をしなければならない
  • 人生幸せなことばかりなんてあるわけがない
  • ネガティブ思考はよくない、ポジティブになるべき

こうして見ると、~しなければならない、~であるべき、~であるのは当然だ、~であるに違いないといった、固着した受け取り方の傾向が、とらわれになってしまうことがわかります。では、~べきであるとは真実なのでしょうか?

  • 女性は愛されるより愛することで幸せを感じる
  • この子はあの学校でなくても幸せになれる道はたくさんある
  • これまで夫は家事をしなかったけれど、私の今までの言い方が響かなかっただけだった
  • 周りに聞いたら、あの人が私を嫌っていると感じていたのは私だけだった
  • 虐待の経験で親を尊敬できない人もいる、親孝行ができない家庭だって多い
  • 幸せも不幸もその人の受け取り方ひとつ
  • ネガティブになるのは人間の本能として当然のこと

など、全く別のとらえかたもあるのです。

あなたは今、何にとらわれているのでしょう。そのとらわれはあなたを縛り、苦しめていませんか。

心の時代に~禅でいうとらわれからの脱却~

心の時代に再燃を見せている禅の世界。Appleを生んだスティーブ・ジョブズも禅を愛していたことはビジネスウーマンにとっても有名で、もはや禅の教えをひとつの教養として学んでいる人も多いようです。まずは禅の逸話から、禅でいうとらわれからの脱却をご紹介します。

アニメで有名な一休さんは、とらわれからの脱却に全てを捧げた禅のお坊さんです。一休さんには様々なとんちのエピソードがあります。

このはし渡るべからず

このはし渡るべからずと書かれた看板がありました。一休さんはその看板を見て、端(はし)ではなく、堂々と真ん中を渡って目的地に到着したため、無事ごちそうにあやかれました。橋を渡ってはいけないのだという思い込みにとらわれていると、目的地にたどり着くことはできないし、ご馳走を食べることもできなかったのです。

めでたくもあり、めでたくもなし

元旦の早朝、京の街がおめでたい空気に包まれている中、一休さんはガイコツを結びつけた竹竿を手にし家々を訪れては「ご用心、ご用心」とふれ回りました。正月にガイコツなど縁起が悪いと街の人は眉をひそめます。一休さんは言いました。「人間はいつまでも目がでているわけではない。いずれ皆、このようになるのです」

正月には門松を立ておとそを飲み、無事訪れた新年を祝うことが、古くから伝えられてきたしきたりでした。当然、誰もが正月をめでたい、めでたいと祝います。一方で、正月が来るということは、誰でも1つずつ歳をとる、正月が来るたび死へ近づいているということでもあります。あと何回正月を迎えられるかわからない、生きているうちにいいことをしようではないかという、一休さんのような別の見方があるのです。

私たちの誰もが疑わない一般常識やおめでたいことも、そこにだけとらわれてしまうと、何か大切なものが見えなくなってしまうようです。

禅は常識もまた無常とし、世の中の全ては移りゆくものであり、そこにとどまらないと教えてくれます。そして禅は、禅を信じるなとも説いているのです。禅を信じるということもまた、とらわれなのです。

日々雑多に入ってくる情報の渦の中、あなたが頑なに信じているものは何でしょうか。そしてその信じているものやとらわれのせいで、今の悩みが生じているのかもしれませんね。

心理学でいうとらわれからの脱却

心理学でいうとらわれからの脱却は、3つの心理療法から理解できます。

心理学では、悩みの原因は出来事そのものにあるのではなく、その人の受け取り方によって生じるものと説明しています。心理学の分野でもいくつかの療法として古くから学び継がれてるそのどれもが、とらわれからの脱却を目指すアプローチなのです。

論理療法の心理学

固定観念から解放される心理学のひとつとして、論理療法があげられます。論理療法では、悩みの原因は出来事そのものにあるのではなく、その人の受け止め方・捉え方にあると考えます。

例えば、意中の人に食事を誘ったけれども、断られたという事実があるとします。その時あなたは、断られたのは私に女性としての魅力がなかったからだとか、彼は私のことを好きではないからだと受け取り、落ちこみました。私は愛されない人間なのだと思い込み、以降の恋愛に臆病になってしまいます。

けれども、別の女性が同じ立場にたった時、彼にはもう意中の人がいるのだろうとか、たまたま私がタイプでなかったのだろうと受け取り、特に落ちこむことがないのです。再び違う誰かを好きになっても、臆することなく食事に誘うかもしれません。

このように事実は同じでも、受け止め方の違いで引き起こる感情や結果は違ってくるものです。しかしこの男性が食事を断った理由が実は、女性から初めて誘われて嬉しくてどうしていいのかわからず、つい断ってしまっただけだったとします。女性たちの受け取り方はあくまで本人たちの推論であり、事実とは異なっていたのです。そこで心理学的には、事実と推論を分けて考えます。このように、この世は受け止め方の世界であると言えます。事実はでない思い込みにとらわれて、自ら不幸を作り出していることがなんと多いことでしょう。

論理療法の心理学では、その思い込みは事実なのか、推論なのかと問うことで、固定観念から解放していくのです。

ゲシュタルト療法の心理学

ストレスを軽くする心理学のひとつとして、ゲシュタルト療法があげられます。ゲシュタルト療法は、問題解決を図る際、特定の部分に焦点を当てるのではなく、物事の全体像を捉えていこうとする考え方の総称です。

一部分が欠けた円と、完全な円を見たとき、欠けた円の方が強く印象に残るでしょう。欠けた部分が気になったり、欠けた部分を完成させたくなったりするので、完全な円が目に入ってこなくなるからです。このように人は、欠けた部分に焦点を当ててしまうので、足りないものばかりを見て、足りているものが見えなくなってしまいます。満ち足りていることが多いのにも関わらず、不満ばかりを感じてしまうのもそのためです。相手の気に入らないことだけが目について、あの人は嫌なやつだと決めつけてしまうのもそのせいなのです。

上の図は何に見えるでしょうか。黒い影の顔が向かい合っている図だと認識する人もいれば、中央に黄色い盃があると認識する人もいます。つまり、同じ絵でも焦点の当て方が違えば全く違うものに見えてしまうということです。それは、私たちが認識しているこの世界でも同様です。同じ世界を生きていても、捉え方の違いで全く別のものに見えてしまうということなのです。

ゲシュタルトでは1人称で考えます。「あの人が私を怒らせた」のではなく、「あの人の言動によって私が怒った」と捉えるのです。相手は自分の価値観を語ったり、思うように行動しているだけで、自分が怒る理由はないのです。

ゲシュタルト療法の心理学では、受け取り手がどこに焦点を当てているかが重要になってきます。同じようにアドラー心理学でも、苦しみの原因は自分の内側にあるとして、自分のものの見方に焦点を当てていきます。それまでは、他人に焦点を当てて、苦しみの原因を自分の外にあるという視点に立った考え方でした。アドラー心理学では、苦しみから開放されるために、他人をなんとか変えようとせず、自分を変えていくことが基本です。自分の努力やはたらきかけで変えることのできない他人の問題と、自ら変えることのできる自分の問題を分けていくことからはじまる心理学です。

森田療法の心理学

神経症の心理学的アプローチとして、神経症と呼ばれる症状を緩和・改善するために森田療法は生まれました。

森田療法の特徴は「あるがまま」です。一般的に言われる、克服すべき問題点やネガティブな感情を切り捨てようとするのではなく、全てあるがまま受け入れるという考え方です。

不安や怖れの感情を抱いたとき、それが足かせになって行動できなくなることがあります。行動するために、不安や恐れの感情を取り除こうとしたり、そもそもそういうネガティブな感情は持たないようにしようと自戒したりすることがあるでしょう。しかし、気をつけよう・気をつけなければ、取り除こう・取り除かなければと意識すればするほどに、逆にネガティブな感情にとらわれてしまいます。自転車に乗っていて、左に溝があるから落ちないように注意しようと左を意識しすぎて、なぜだかかえって左に左に向かってしまう現象のようなものでしょう。

森田療法では、不安を自然な心の動きとしてそのまま受け入れ、ネガティブな感情も、ポジティブな感情と同様に仲良くしていこうとするアプローチです。ネガティブな感情をどうにかしようとしなくてよくなるため、ネガティブな感情への焦点がはずれ、今度はどう行動していきたいのかという自分の願望・欲求に焦点があたるようになります。こうしてネガティブな感情のとらわれから脱却していくのです。

森田療法もゲシュタルト療法と同様、神経症の原因を過去に求めるのでなく、自分の捉え方にあると視点を移した心理学です。

日本メンタルヘルス協会 心理学講座参

心理学としての禅から得るもの~思考の節約~

東洋の心理学と言われるのが禅の教えです。禅と言えば、余計なものを削ぎ落とした質素さやシンプルライフを思い浮かべるのではないでしょうか。断捨離やミニマリストのブームも禅の考えからきています。物や生活といった物質的な節約だけではなく、思考や言葉といった非物質的なものも節約するのが禅の考え方なのです。

凡人は不快な感覚を受け、その後憂い、悲しみ疲れる、つまり自らの胸をうつ

という釈尊の言葉があります。

参考:「阿含経典」増谷訳3巻「箭(矢)によりて」(相応部36、6/雑阿含 17、15「箭」)

例えば、人を第1の矢で刺し、次に第2の矢で刺すとすれば、その人は2つの矢を受けることになります。凡人は不快の感覚を受けると(第1の矢)、その後憂い悲しみ、疲れる、つまり自らの胸を打つ(第2の矢)ということです。このように、凡人は2種類の感覚を受けます。それは肉体的な感覚と精神的感覚です。

一方禅の教えを学んだ弟子は、第1の矢で刺すけれど、第2の矢では刺さないのです。彼らは胸を刺されるような出来事が起きた場合、不快な感覚は受けるけれど、その後は何ら憂いず悲しまず疲れません。自らの胸を打って泣きわめくことはないのです。

私たちは嫌な出来事が起こった場合、つらい・悲しいといった感情を抱くや否や、直ちに思考をはたらかせます。例えば「これはあの人のせいだ。あの人がこんなことをしなければこの事態はまぬがれたのに。そういえばあの人は他にもこんなとこがある、あんなとこがある。腹黒い、汚い、許せない!」と、思考を展開させ、一層不快な感情をつのらせてしまいます。

または「こんなはずじゃなかったのに…なぜいつもこうなのか。そういえばあの時もそうだったし思い返せばたくさんある。私はなんて不幸なんだ!」と自分はいつも不幸であると思い込み、次第に憂鬱さを増してしまうこともあるかもしれません。禅では、このような余計な思考を節約して、シンプルに不快な感覚だけを受け取りましょうと言っています。そのためには、今、ここの感情だけをじっくり味わい観察することで、余計な思考を抑える、マインドフルな状態にすることが必要なのです。

今、あなたが抱えている痛み、悩みや不安は、あなたの余計な思考が導き出した第2の矢なのではないでしょうか。

心理学としての禅から得るもの~こだわらない自由~

誰にでも何かしらのこだわりはあるものです。心理学の分野では、拭えないような強いこだわりを強迫性と呼びます。

一般的に言われるこだわりは、自分の意志でこだわっていることを指すでしょう。例えば、あの人はこだわりがあると言うときには、こだわりがあってかっこいいとするニュアンスが含まれている場合が多いです。こだわり抜かれた匠の味を提供する料理人のいる店には、多くの人が惹きつけられます。こだわりがなくなれば、何の面白みもないじゃないかと考えるかもしれません。

しかし、そのこだわりを守り続けるとき、たとえ世の中から多くの称賛を得ることができたとしても、その分自分に犠牲を強いることになるため、多くの問題が出ることがあるのです。また、古くからのこだわりを捨てたときこそ、新たな創造が待っていることもわかるでしょう。

禅ではこだわらない自由を求めます。また同時に、こだわらないことにこだわらないことも説いているのです。こだわることに傾よることもなく、こだわらないことに傾よることもなく中道を行くことが悟りの道を歩くことになるとしていました。

雨受けにザル

ある大雨の日、古い本堂に雨漏りがしはじめました。お師匠さんが何か持ってこいと怒鳴ると、小坊主たちは、雨を受けるものを持っていかなければと、必死に桶を探し回っていましたが適切なものは見当たりません。1人の小坊主はとっさにザルを持って駆けつけました。ザルが雨受けになるなどとは考えられないのに、お師匠さんはこの小坊主さんを大層褒めました。そして後から桶を持ってきた他の小坊主さんたちは、おおいに叱られたのです。

禅の求めるものはこだわらない自由で、こだわることによって生じる迷いも嫌います。雨が降っているところへ何か持ってこいと言われたら、雨を受けるものが必要で、それは桶だと考えるのが当たり前でしょう。しかし、桶、桶、と桶にこだわって右往左往している間にも時間が流れていくのです。実際お師匠さんは何か持ってこいと言っただけでした。その呼びかけに、雨漏りにザルが役に立つのか立たないのかという判断すら入れ込めず、迷いなく無我夢中で行動したその姿勢が禅だと言われています。

心の安定にはこれが必要だ。幸せになるにはこうならないといけない。というこだわりのために、あなたは心の安定も幸せもなかなか手にできていないのかもしれません。

今日から取り入れる禅の知恵3選

心の曇りを晴らすために禅を学ぼうと思っても、何をどう手につけていいのかわからないのが実情です。そこで、今日からでも取り入れられる、心の時代に沿った心理学としての3つの禅の知恵をご紹介します。

まず、気づく

自分を変えようと思っても、いきなり禅の思考でものごとを考えられることはありません。まず、気づくことが大切なのです。人間は自分で思うより遥かに自分のことに気づけていないものです。だからこそ、まず気づくことを意識してみてください。ゲームのように1気づき、2気づきとカウントしていくのも楽しいでしょう。気軽にトライしてみてください。

【自分の感情に気づく】

時間に追われるような毎日で、なかなか自分の感情を意識することができなくなっているでしょう。カウンセリングではクライアントの感情にフォーカスを当てることが大切にされています。その時どう感じたのか、どんな感情を自覚したのか、まず気持ちによりそっていくのです。心理学では感情の自覚が鈍ると、うつ病や失感情症という精神疾患につながるとしています。

学生時代に仲良かった同級生のAくん。友達だと思っていたのに、ふとした瞬間にAくんのこと好きなのかもしれない…!と気づいて恋がはじまった。こんな経験をした話はよくありますね。その恋は突然訪れたように感じますが、実はAくんと話していた時に、楽しいなとか、嬉しいなとか、何かしら気分のよさを感じていたはずです。その感情はなかなか自覚しにくく、Aくんとこういう話をしたという事実だけがクローズアップされがちです。これからは、今まで意識することのなかった自分の感情に気づいてみてください。

ニュースを見て、政府の対策が遅れてるよねと話した時のあなたの感情はどうでしょう。今、私は不愉快なんだ。今私はガッカリしてるんだ。今、私は怒ってるんだ。今、私はどうなるのか不安なんだ。今、私は話しかけた相手の気を引きたかったんだ。というように、感情に焦点をあてて感情を観てみましょう。

【からだの感覚に気づく】

からだの感覚に気づいていますか?からだの感覚に意識を向けることをおろそかにしやすい現代では、生理的な調整不全が増え続けているといいます。心理学的にも、からだの感覚を観察するセラピーが、心の問題の解決につながるとされています。

子供が急に道路に飛び出した!危なかった。という場合、すぐに子供を叱ったり、よかったねと抱きしめたり、何かの行動に移すのではないでしょうか。その時あなたの体の感覚はどうなっているか意識することは少ないかもしれません。胸がギュッとしめつけられる感覚、ドキドキして心臓が早くなっている感覚、頭に血が登ってカーっとなっている感覚、ほっとして体の力が抜けた感覚、人によって様々です。このからだの感覚に耳を傾けてください。

心理学では、このような、からだの声に耳を傾け、そこに自然と生じる気づきや変化に焦点を当て、ただ静かに見守る技法をフォーカシングと呼びます。

【自分の本当の気持ちに気づく】

自分の気持ちに嘘をついていませんか?心理学の分野でも、自分に嘘をつき続けていくと自分への信頼感がなくなると同時に、他人に対しても疑いから入るので、世の中が息苦しいものになるとされています。また、脳機能が低下し、頭が働かない、ものごとがうまくいかないと感じることが多くなるのです。

インスタを見ていたら自粛要請がでているのに関わらず、遊びに行って楽しそうにしている友達の様子が目につきました。こういう人がいるから感染拡大するのよ、もうこの人とは距離をおこう、明日B子に報告しなくっちゃ。などと考えるとします。その後友達にイライラが募るし、たとえB子と悪口を言い合ってその場はスッキリしたとしても、なんだか不完全燃焼で気にかかってしまう結果になることが多いでしょう。それは本当の気持ちではないからです。本当の気持ちは、自分はこんなに我慢して自粛しているのに、人からの批判も気にせず好きなことをしている友達が羨ましかったんだという事が往々にしてあります。

誰しも自分が友達に嫉妬しているなどと思いたくないものです。嫉妬している自分は器が小さく醜く感じて、その事実を無意識にはねのけてしまいます。しかし、あとからでもこうした自分の本音に気づけることは、引きずってる不快な感情から解き放たれる鍵となります。心理学では自己受容と表現し、醜い部分も含めてありのままに自分を受け入れることが、成熟した健康な心をつくるとされているのです。

お昼の時間だけど、このあとあれもこれもしなくっちゃ。昨日は食べ過ぎたし無駄遣いもしたくない。適当にコンビニおにぎりですませちゃおう。とはよくある日常の話しかもしれません。でも、あなたの本当の気持ちはどうなのでしょう。昨日食べすぎていなかったら何を食べたかったのでしょうか。もしこの後予定がなかったら本当はどうしたいのでしょうか。無駄か無駄ではないかの判断は置いておき、好きに選べるとしたらどこで食べたいのでしょうか。そもそも今、お腹は空いているのでしょうか。

お昼ごはん一つどうでもいいことのように思うかもしれませんが、こうしたささいな選択でも、自分の本当の気持ちを見ていく事は大切です。過ぎた昨日も未来の用事も関係なく、今ここ、この瞬間のあなたの望みは何なのか、自分に聞いてみましょう。もちろんそれを実行するかどうかは置いておき、何の条件もないのなら自分はどうしたいのか、本当の気持ちに気づいてあげようということなのです。

禅はこの、過去にも未来にもとらわれない、今、ここを大切にします。

そのまま感じる

感情を自覚しても、なかなかそのままゆっくりと感じることはできにくいものです。心理学では、感情をそのまま味わうことが、一時的な情念に混乱されることなく、徳や善・. 幸福につながると言われています。悲しみの感情も、抑え込んでしまうのではなく、味わいきることで浄化されるとし、心理学用語ではカタルシスと呼ばれています。

気づいたものをそのまま感じてみることを意識してみましょう。

例えばこんなこと・・・

今日はきれいに掃除して、シンクがピカピカになったわと思ったとします。いつもはきれいになった、ハイ終わり。なのかもしれません。ですが、そのきれいになったシンクを見て、うわぁ、ピカピカしてきれい…とうっとりした気分をじっくり味わってみます。または、綺麗になって嬉しいなとその喜びの気持ちに浸ってみます。それはまるで、子供の頃初めて見た物に心が動かされ、瞳を輝かせながら、我を忘れて見いっていたことに似ているかもしれません。初めて手にしたキラキラ輝くお姫様のおもちゃを、何日も何日も胸に抱いて寝たあのトキメキのようかもしれません。その時一切、何の余計な思考もなく、ただ感じていることに気づくでしょう。たかだかシンクがきれいになったということでも、胸いっぱいに幸せが広がる体験を重ねていく、その時今、ここに生きているあなたがいるのです。

これがネガティブな事だった場合、気持ちを味わうというのはとても辛いことに思うかもしれません。辛いことがあったならそのまま感じるのではなく、別のことに気持ちを切り替えて前向きになったほうがいいと考えるでしょう。もしかしたらネガティブな感情は察知するより前に封印して、明るい笑顔を作っているかも知れませんね。しかし、ネガティブな気持ちはいけないことだというとらわれをはずし、悲しみ、怒り、憎しみのようなネガティブな感情であっても、そのままその瞬間、あるがままに思い切り感じとるのです。まるで子供の頃のように、人の目もこの後のことも気にすることなく、心の中で思い切り悲しんだり、怒ったりしてもよいのです。次第に、ああ、自分はこんなにも悲しいんだ、実はこんなに怒ってるんだなというように、客観的な視点で自分を捉えられるようになってきます。そこからはじまるのは自己の癒しで、心理学でも自己治療の過程として重要視されているのです。

それ以上考えない

気づき、感じるの過程を経ると、次は頭の中には判断がわいてきます。その判断がきっかけで、色々な思考が浮かんでくるものです。その思考はたいてい不安なことです。心理学では人間は1日に6万回ものネガティブな思考が浮かぶとしています。

それでは、それ以上考えないとはどういうことなのでしょうか。シンクがきれいになって喜びを噛みしめたなら、その心地よさに、これはよいことなのだと判断して、毎日シンクをピカピカにしようと誓いをたてるかもしれません。悲しみを思い切り感じたなら、このようなことはよくない事だと判断して、自分にダメ出しをするかもしれません。こうして、知らず知らずのうちによし悪しを判断する二次的な思考がでてきますが、この判断はしなくてよいのです。あるがままを感じたら、それで100点満点。釈尊の言う第二の矢を自分に放つことはもう辞めていいのです。自分を責めることも、褒め称えることも、何も必要はありません。

自分を褒めることは大切なことではないの?と思うでしょう。ですが禅では自分や他人の基準でジャッジすることはしません。出来事と受けた感覚以外の余計な思考の装飾は不要なのです。褒めはせず、その分喜びや幸せの感情を味わうことが大切です。それが禅の言う思考の節約となるのです。

禅の教えは女性の悩みを解決してくれる

心の時代においては、心についてもっと知りたい、知識をうまく活用してよりよく生きたいと誰もが思うものです。禅に対するイメージは、難しそう、堅苦しい、宗教は怪しいなど、非常にとっつきにくいものでした。しかし、禅の教えのエッセンスと心理学を融合させた上にシンプルにすれば、思うよりスムーズに受け入れられるのではないでしょうか。これを日常生活に取り入れるようになると、曇っていた心が静かに晴れていくのを感じ始めるようになります。

私たちの心を曇らせてしまうのは、はたしてコロナ禍のせいなのでしょうか。コロナ禍で変化する様々な事象に私たちの心が反応し、憂鬱を募らせる人もあれば新しい価値観に気づき希望見出す人もいるのです。つまり、私たちの見る世界は、その人の受け取り方や心の持ちようでどうにでも変化していく可能性を持っているということです。

私たちの中にあるとらわれが、自分を縛り窮屈にさせ、視界を狭めていました。そのような心の状態ではますます不安になり、絶望すら感じるようになるのも当然です。禅の教えである、とらわれない・かたよらない・こだわらない心の持ちかたが、自分を解き放ち、幸福度を高めていくれるのです。

人と会えない時間は孤独な寂しい期間ではなく、自分をじっくり見つめるチャンスなのかもしれません。まずは気づく・感じる・それ以上考えないを今日から意識してみましょう。

ただし、なかなかできないと落ち込むことなかれ。禅の教えにとらわれて窮屈にしてしまわれませぬように。

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