ラオスへ疑似旅行!おすすめスポット①日本の援助で建設された絶景スポット「ナムグム湖」
外出も外食もままならぬ日々が続いています。県をまたぐ旅行も難しく、ましてや海外旅行などはもってのほか。旅好きな人、旅行でストレスを発散してきた人は、フラストレーションが溜まっているのではないでしょうか。
国境封鎖が続くラオスの首都ビエンチャン郊外に暮らす私が、不安や焦りを感じた時、自然と足が向く場所があります。何も無い首都と紹介されることが多いビエンチャンですが、何も無いからこそ癒やされるという場所に、皆様をご案内したいと思います。
最初にお連れしたいのは、ラオスでも一二を争う風光明媚な観光地「ナム・グム湖」です。首都ビエンチャンから100キロほど北上したところにある、ラオス最大の人造湖「ナム・グム湖」。湖上には100以上の島が浮かび、陽光に反射してキラキラと輝くさまは、日本三景に数えられる松島の絶景を彷彿とさせます。
実はナムグム湖の誕生には日本が大きく関わっています。1968年、電力不足が経済成長を妨げていたラオスの窮状を救うため、日本、カナダ、オーストラリアが費用を支援してナムグムダムを建設しました。ダム建設のために川をせきとめたことによって生まれたのがナムグム湖です。ナムグム湖に浮かぶ無数の島々は、ダム建設以前は山の頂きだった部分だそうです。
ナムグム湖の島の中には「男島」、「女島」と呼ばれる男女別の刑務所が置かれていた島があります。1975年、人民解放軍の勝利でラオスの内戦が終結すると、共産党政府は、政治犯や麻薬中毒者、売春婦など「文化的に汚染された人々」を、この2つの小島に送りました。
中国やベトナムにも存在した、労働を通じて思想改造を図る労働改造所のような場所だったのでしょう。現在ではこの2つの島も観光地として開放され、売店などが設置され、遊覧船で訪れることができます。
遊覧船の島巡りは、ナムグム湖観光のハイライトです。湖畔に浮かぶいくつかの水上レストランが、遊覧船を保有していて、一時間5ドル前後で数十人が乗り込める小型の船舶が貸し切りになります。
出発前に水上レストランで、湖で釣れた魚を使った料理をいくつかオーダーし、船の上で食事を楽しむことができます。気持ちの良い風に吹かれ、美しい景色を眺めながら食べる料理は、普段の数倍美味しく感じます。船も、景色も、湖も独り占め。なんて贅沢なランチクルーズでしょう。
半日あれば、集落や小学校がある少し遠くの大きな島まで行くことができるようなのですが、予算と時間の関係もあり、今回は一時間で往復できる、一番近くの小さな島を探訪することにしましょう。島ではラオス人の男性がたった一人、羊や豚、鶏などを飼いながら暮らしています。人口希薄で土地が有り余っているラオスで、なぜわざわざ島の上で一人動物を飼育しているのか、不思議ですね。
観光客も滅多に来ないようで、男性は、みやげ品を売るでもなく、入場料を取るでもなく。よく言えば自然体、悪く言うと愛想のかけらも無い塩対応。不意の闖入者に訝しげな表情を浮かべています。小さな島で、休憩所もベンチも無いので、長居はできません。でも、何も無い島でのんびりと暮らす動物を見ていると、なんだかとても癒やされるのです。次に来る時は、男性と動物たちに、なにかお土産でも持ってこようかな。
ラオスへ疑似旅行!おすすめスポット②ヒンドゥーと仏教の神々が混在する不思議な世界「ブッダパーク」
ビエンチャン市中心部からメコン川の下流に向かってバスで一時間ほど行くと、200体以上もの仏像が点在するブッタパークがあります。雨風に侵食された仏像の有様は、カンボジアのタ・プロームの遺跡を彷彿とさせ、長い年月を経た古代遺跡であるかのような錯覚を覚えます。
歩を進め、仏像群との距離が狭まるにつれ、これまで見てきた仏教遺跡とは明らかに様相が異なることに気付きます。仏像の顔からグワーンと伸びる長い手、大きく口を開けた悪鬼に今にも飲み込まれそうな丸い顔、豚に髷を掴まれベローンと舌を出す男。どちらを向いてもまがまがしいモニュメントが目に飛び込んできます。
ブッタパークは、実はそれほど古いものではなく、1958年に宗教家で彫刻家でもあったブンルア・スリーラット氏によって建立された寺院です。正式名称は「ワット・シェンクアン(Wat Xieng Khuan)」。窮屈な現実世界から人々がいっとき解放され、癒やされる場所を作りたいというスリーラット氏の願いがこめられた寺院だそうです。
確かに、ブッタパークの仏像に囲まれると、現実世界のあれやこれや煩雑なことが頭から暫し離れていきます。目の前の異形の物体が、現実の問題を押しのけるように、心を侵食してくるからでしょうか。
ブッダパークの仏像群が、数百年前の古代遺跡のように見えるのは、雨風で変質しやすいコンクリートを使っているからだそうです。ブッダパークの周囲にはコンクリート製造工場が多いため、安価なコンクリートが調達できたようなのです。
ブッダパーク荒廃のもう一つの原因は、1975年にラオスで共産主義国家が成立すると同時に、スリーラット氏が信者とともに故郷タイのノンカイに去ってしまったからだそうです。創始者がこの地を離れてから十数年、訪れる人もなく、荒廃が進んだブッタパークが、再び人々の注目を浴びたのは、1980年代後半から1990年代にかけて、ラオスの観光地化が進んだことと関係があるようです。
ヒンドゥー寺院とも仏教寺院とも異なる独特な雰囲気を持つブッダパークは、外国人ツーリストからの注目を集め、コロナで国境が封鎖されるまでは、毎年多くの外国人ツーリストがブッダパークを訪れました。入り口でデポジットを払ってヘッドフォンを借りると中国語、ベトナム語、フランス語などで音声ガイドが聞けたようです。2020年1月から2021年9月に至るまでは、外国人観光客がラオスに入国できないため、音声ガイドのサービスはストップしています。
一部のモニュメントの土台部分にはラオス語で説明文が刻まれていて、これを見れば、モニュメントの由来や意味することの大凡を掴めます。モニュメントで最大のものは、全長40メートルの涅槃仏。しかし、モニュメントの多くはヒンドゥーの神々で、10本の腕を操る戦いの女神ドゥルガー、七つの頭を持つインドの蛇神ナーガ、像にのった天空の神インドラ、日食月食を司る魔神ラーフなどが太陽を掲げ、動きのある躍動的なポーズで造られています。
これらは全て信者の寄付と無料奉仕によるもので、熟練の仏師や芸術家による洗練された仏像とは異なります。どこかユーモラスで、ユニークな像が多いのも頷けますね。
せっかくなので、ブッタパークの中核をなす2つのモニュメントについて、簡単に解説します。
ブッタパークの中核をなすモニュメント①パンプキングツリー
ブッダパークの中でひときわ異彩を放つのが通称「パンプキンツリー」と呼ばれる丸い物体です。高さ3mの建物の入口には悪魔が大きく口を開けています。
悪魔の口から中に入ると、建物の内部は地獄界、地上界、天上界の3層構造になっていて、それぞれの世界にいる人がどのようなめに遭うのか、コンクリートのモチーフによって表現されています。
地獄界では、様々な刑具で打たれたり刻まれたりして苦しむ人や無数のドクロのモニュメントにより、苦しみや痛みの世界が表現されています。悪いことをすると、地獄に落ちてこんな目にあうよ、という意味なのでしょう。
地上階では、運動会の綱引きのようなモニュメントが目を引きます。物欲にまみれ、物やお金を奪い合う人々の浅ましい姿を描いているのでしょうか。
天上界は、上半身が人間、下半身が蛇のモニュメント群で埋め尽くされています。天上界に居るのだから、天女か女神を表しているのでしょう。しかし、私の目には、清らかなものには映りません。薄ら笑いを浮かべた表情からは邪気を感じますし、美しい上半身を持つのに下半身が蛇というのも気になります。天上界に這い上がるのは、薄ら笑いを浮かべた偽善者だけということなのでしょうか。皆さんの目にはどう映りますか?見る人の心の状態で、受ける印象や持つ意味が大きく変わるのかもしれません。
天上界から更に階段を登ると、屋上は展望台になっていて、ブッダパーク全体が見渡せます。樹木に囲まれた緑の芝生の上に点在するモニュメント、強い陽の光に反射して美しい光景です。しかし、この屋上は手すりなどの安全措置は施されておらず、足を滑らせればそのまま真っ逆さまに地面まで転がり落ちてしまうスリリングな空間。写真を撮って一休みしたら、早々に立ち去ることにしましょう。
ブッタパークの中核をなすモニュメント②人生の輪
もう一つの必見ポイントは、スリーラット氏の宗教芸術の集大成とも言える「人生の輪(The wheel of life)」というゾーンです。これは、仏教の教えの中でもカルマ(業)と呼ばれる、前世から引き継いでしまっている一種の宿命について説明しているモニュメントだそうです。中央にはドクロの冠をかぶった巨大な四面仏。顔の下からは6方向に手が伸びていて、その手の上には前方を指差す小さな人がのっています。これは欲深さを引き起こす煩悩の化身だそうです。
ブッタパークのモニュメント全体が何を意味しているかについて、3つの異なる解釈があります。スリーラット氏が瞑想で得た世界を忠実に再現したという説。仏教説話を体現したという説。そして、ヒンドゥー神話を題材にして造られたという説。
上記の異なる解釈から推測すると、実際のところは、ヒンドゥーと仏教の教理をベースに発展させたスリーラット氏の教えを、難しい言葉ではなく、強烈なインパクトで信者に伝えたものなのでしょう。信者の欲望・恐怖・不安など負の感情を刺激することによって、人々に混沌と矛盾の中で安らかに生きる術を示唆しているのかもしれません。宗教に一生を捧げたスリーラット氏の、人々を救い、導きたいという思いがひしひしと伝わってきます。
そんなスリーラット氏について、知り得た情報を簡単にまとめてみました。
ルアンプー・ブンルア・スリーラット氏は、1932年、タイ王国ノーンカイ県に生まれました。ノンカイはメコン川を挟んでラオスの首都ビエンチャンの対岸にある街です。ブンルアは名前、スリーラットが名字、ルアンプーは高齢の僧侶に対する敬称です。
少年期のスリーラット氏は、学校での勉強には全く興味を示さず、家を飛び出して高僧に弟子入りしては両親に連れ戻されることを繰り返していました。やがて青年期を迎えると、白装束を身に纏い、洞窟で仙人のような暮らしを始めます。彼が宗教家として目覚めたのがこの頃で、信者も徐々に増えていきます。こうした中、より説得力のある宗教家を目指したのでしょう。単身ベトナムに渡り、宗教を真剣に学んだという記録が残っています。
タイは、仏教を国教と定め、組織的な統制下に置いています。スリーラット氏が唱える異質な宗教は当局から危険視されたようで、思想犯として投獄された事もあったようです。タイでの布教活動に難しさを覚えたスリーラット氏は、20代後半でノーンカーイからメコン川の対岸ラオスに移住しました。移住後間もなく、自らの世界観を具現化した庭園「ブッダ・パーク」の建設をはじめます。しかし、1975年、ラオスで共産党政権が誕生すると、氏はやがて起こるであろう宗教弾圧を予感して、故郷ノンカイに宗教活動の拠点を移しました。
タイのノンカイに戻ったスリーラット氏は、ブッタパーク(ワット・シェンクワン)からメコン川を挟んで対岸の土地に新たなお寺、ワット・サラ・ケオクー (Wat Sala Keoku)の建設を始めます。こちらの寺院もブッタパークと類似のモニュメントが100体ほど造られたようです。ワット・サラ・ケオクーはブッダパークと違い、今でも信者が寺院を管理し、宗教の聖地としての体裁が保たれているようです。ワット・サラ・ケオクーやモニュメントについては、タイの芸術大学の最高峰「シラパコーン大学」のタイ仏教美術の講義で、紹介されることもあるそうです。
ルアンプーという僧の敬称を持ちながらも、生涯法衣ではなく白装束で過ごしたスリーラット氏は、1996年に亡くなり、現在はワット・サラ・ケオクーの敷地内の3階建ての建物の最上階に安置され、混沌の社会に暮らす信者たちを見守っています。
ラオスへ疑似旅行!おすすめスポット③ラオスの人々の暮らしを支え続けるメコン川
中国のチベット高原に源を発するメコン川は、中国雲南省からミャンマー・タイの国境に抜け、ラオス・タイの国境線を引くように南下します。その後カンボジアからベトナムに流れ出て、河口付近でベトナム最大の米どころであるデルタ地帯を形成。最後のお役目を終えて南シナ海に注ぎ出ています。
ラオス国内で首都ビエンチャンを含む4大都市、ビエンチャン・サバナケット・ルアンパバーン・パクセーはいずれもメコン川岸に発展した都市です。山がちな地形で陸路交通が困難であったラオスは、メコン川の水運に頼る期間が長く続き、メコン川沿いでないと都市の発展が難しかったのでしょう。
ラオス人の主要民族であるラオ族は、もともと雲南省の俸(ダイ)族が南下したもので、ラオス国内にとどまったものがラオ族、更に南下してタイに至ったのがタイ人と言われています。三者に共通した特徴は、水辺に高床式の家屋を建て、日に何度も水浴びをして、清潔を保つ生活スタイルを好んだことです。中国の史書にも「水を好む民族」と記されています。
ラオ族、俸(ダイ)族、タイ族にとって一年で最も重要な行事は、新年を祝う「水掛けまつり」ですが、この時の主役も水。互いに水をかけあい大騒ぎしている様子が印象的ですが、清らかな水によって、心や身体の穢を清めるという意味があるようです。
多種多様な魚が生息するメコン川は、また、ラオスの人々の食卓にも欠かせない存在です。ビエンチャンでは小さな集落ごとにタラートと呼ばれる生鮮市場が必ずあって、肉や野菜、雑貨など生活に必要なものは全てここで揃います。タラートに行くと、1センチに満たない小さな干し魚から、数メートルに達する巨大淡水魚まで売られていますが、巨大魚は全てメコン川で捕れる魚です。
このように、昔からラオスの人々の生活を支えてきたメコン川ですが、現代においてはラオスに貴重な外貨収入をもたらす電力を発電するダムの建設が進んでいます。
2014年の時点でメコン川本川のダム建設計画は計 11 基(うちラオス国内は2基)、支川のダム建設計画は 58基(うちラオス国内41基)でした。メコン川本線の水力発電ダムの多くはタイへの売電収入による貧困削減が目的です。
東南アジア地域 メコン流域の流域管理・環境保全に係る 情報収集・確認調査
メコン川はラオスに経済効果を与えただけでなく、精神的な支柱としても欠くことのできない存在です。水の波動や水の流れる音、水の見える光景によって心が癒やされるのは多くの人が経験していると思います。海に囲まれた日本では、悲しい時や疲れた時、海を見て癒やされる人が多いでしょう。内陸国のラオスで癒やされる風景と言えば、多くの人がメコン川を思い浮かべるようです。
生命に欠かせない水が滔々と流れる様子を目にすると、身体の細胞ひとつひとつが潤っていくように感じませんか?季節によって、時間帯によって、川幅が膨らんだり狭まったり、青緑色に澄んだり、どす黒く濁ったり、刻々と姿を変えるメコン川。いつ行っても新しい発見を与えてくれるメコン川によって、私達の疲れた心は癒やされるのです。
最後に、心が癒やされるメコン川の光景が身近に望める3つのビューポイントをご紹介します。
メコン川の光景が身近に望める3つのビューポイント
1つ目のポイントは、さきほどご案内したブッタパークの奥にある休憩所。メコン川に面した大小のコテージが10数棟立ち並んでいて、メコンから吹き寄せる心地よい風を浴びながら、ゆったりとココナッツジュースやビールを飲むことができます。
家族連れも多く、中にはもち米や干し魚などのお弁当や、ビールなどを持ち込む人もいます。店員さんは小言を言うでもなく、笑顔で挨拶して通り過ぎていきます。こういう時に、非難する声が聞こえてこないのも、ラオスで癒やされることの理由のひとつです。
まだそこまで経済中心社会ではない、といったことも含めて、ラオスの風景は心が癒やされるのです。こちらの休憩所では、対岸のタイの街並みも見渡せます。ブッダパークを建設したスリーラット氏が生まれ・没したノンカイの街を眺めながら、宗教に一生を捧げたスリーラットさんの潔い人生を思うと、心が癒やされる気がしませんか。
心が癒やされるメコン川の光景が身近に望める2つ目のポイントは、Landmark Mekong Riverside HOTELの辺りです。
facebook Landmark Mekong Riverside Hotel
チャオ・アヌウォン公園からメコン川の下流に向かって自転車で15分ほどの所にあります。ホテルの前のDongchan Rdを渡ると石段があり、石段を降りるとメコンのほとりに出ます。メコンの水によって冷やされた涼風を浴びながらメコンに沈む夕日を眺めると、心が癒やされるのです。
ここはメコン川がゆるやかにカーブしていて、魚が捕れるポイントでもあり、釣りをしている人を良く見かけます。日本のように竿で一本釣りをしている人もいれば、大きな網を使った伝統漁法による人も、小船を漕ぎ出して網を上流から流して囲い込むように魚を追う人もいます。何百年も前から変わらない光景をぼーっと眺めていると、なんだか心が癒やされるのです。
心が癒やされるメコン川の光景が身近に望める3つ目のポイントは、Café Sinoukのオープンテラス席です。
Café Sinoukは、チャオ・アヌウォン公園から先程とは逆に、メコン川の上流に向かって自転車で10分ほど行ったところにあります。メコン川沿いにあるカフェで、室外にあるオープンテラスからメコン川が見渡せます。乾季であれば、川幅がぐっと狭まり、メコン川の水際まで河原の砂地を歩くと、対岸にタイの街並みがはっきりと見えます。タイ側の川岸のレストランで流すにぎやかな音楽まで聞こえ、タイ人の暮らしが身近に感じられます。乾季のメコン川は、10分も泳げば渡りきれてしまえるほどの川幅ですが、これまで何度かタイに呑み込まれそうになったラオスにとって、国土を守る大切な国境です。
Café Sinouk – Saynamkhong Appartment
ラオスで心が癒やされるのはラオスの人の心が満たされているから
ラオス人の心が満たされているのは、ラオス人が家族や親戚、友人たちと深く繋がっているからだと思います。私達の心が満たされずに、常に癒やされることを欲してしまうのは、人間関係がますます希薄化していることと関係があるように思えます。
分かっていても、繋がらないことを、結局は選択して生きていくのは、競争社会で繋がることのリスクや煩わしさに苦しんだ結果のような気もします。
心が乾いた私に癒やされる空間を提供してくれたラオス。今後は経済がますます発展して、人も、風景も変わってしまうのでしょう。もう少しだけこのままでいて欲しいなどと望むのは、センチメンタルなたわごとに過ぎないのかもしれません。